新田裕志
1959年10月24日大阪に生まれる。
2017年1月57歳二人の息子の父親です。
仕事は・・・病院のリハビリテーション科に勤務しています。
子供のころから視力が悪く小学生時代で視力0.1くらい
今では0.02くらいと思います。
+夜盲(鳥目)夜になると見えない
+視野狭窄(望遠鏡でのぞいた状態で一日中生活しているようなもの)
幼いころより姉2人の影響で音楽に興味を持つ
小学生のころより人前で歌を歌うことが好きで、当時はグループサウンズ
などの曲を学校の中で歌い、五木ひろしの歌を先生の前で歌い、小学生にはまだ早い、としかられていた。。
中学一年よりギターをはじめ、さだまさしや 井上用水 のコピーなどをやっていた。
スポーツは苦手ではあったが当時テレビで、『俺は男だ!!』と言うドラマが流行っていて、単純な私はできもしないのに剣道部に入っていました。
へただけど好きだった見たいで、中学で2年間高校で一年半やっていました。でも初段の試験に3回も落ち、やはりスポーツは向いてないことに気が付き、歌とギターの練習に励みました。
この剣道をやっていたことが今の僕の発声法の基本となっていると思います。
高校の剣道部ではかなり発声練習をさせられましたし、通学途中でも何処でも先輩に会ったら、周りの人がびっくりするような大きな声を出して挨拶しなければならない、これが今思えばすごくいい発声練習だったと思います。
このときの剣道部の先輩の中でバンドでギターを弾いていた人がいて黒いレスポールを部室にもってきていて 、そのレスポールを弾かせてもらいました。
そのころはまだコードを引くしかできなかったのですがアドリブがやりたいんですなんてえらそうにいったらその先輩はじゃあまず之を覚えたらいいよと
ペンタトニックスケールの第1ポジション?
というのでしょうか ・・・・・
を教えていただきました。
そこが僕のギターアドリブの第一歩だったんです。
そのころからアドリプ・インプロヴァィゼィション(即興演奏)
に憬れてアドリブができるように、スケールを覚えようと色んなホンを買いましたが、その中でもいちばん簡単そうなもの5つの音だけで音階を作るブルーススケールとかいてありましたが
キーボーディストの友人いわく ペンタトニックスケールというらしいです。
このころよく聞いていたのはChar・ツイストなどである
その他影響を受けたギタリストは高崎晃・高中正義・Jeff Beck ・リッチーブラックモア
サンタナ・アップテンポの早いフレーズもかっこいいと思うけど、スローな曲で泣きのチョーキングが大好きでした。
18歳ころよりバンド活動をはじめ学生時代には文化祭シーズンになると4つくらいのバンドを掛け持ちしながらやっていました。
学校の先生からは、おまえは文化祭だけはりきっとんな問い割れた。
このころにはじめてオリジナル曲ができました。
20歳から27歳くらいまでも同時に3つのバンドを掛け持ちしながらやっていて
いずれもコピーバンドばかりでした。
わたしのバンド癧の中で一番輝いていた時代は30歳ころから41歳までの間です。
この長い間ひとつのバンドで日本中を走り回っていました。
そのバンドは
『手話ロックバンドシャンテ』といいます。
私はそのバンドでボーカルとギターを担当しシャンテのオリジナル曲の70パーセントは私の作品でした。
あちこちの市民会館で500から1500人を前にライブすることが毎週のようにあり、まるで夢を見ているのかというような、あっという間の10年間でした。
このバンドは久しぶりに集まって音だそうか、ということからスタートした学生時代のバンド仲間でした。
最初は9月にライブがあるからそれまでやろうと言う話で5月ころより、始まりましたが
その、ライブが終わっても、誰一人、じゃあといって立ち去るものは無く、なんとなく自然にまた続いてしまったバンドです。
はじめのうちは小さなイベントに時々出るくらいでしたが、いつのまにかライブが増え
月に土日のみで6回から8回一日に二か所のライブがあることもありました。
夢のような毎日となっていました。
プロのミュージシャンンとも交流があり、『Fernandes』というギターメーカーより、ギターを数本作っていただきしかもこちらの要求がすべて叶ってしまうというまるでプロミュージシャンのような気分でした。
。
ライブ会場についたら自分たちだけのためにPAや証明が組まれ、会場入りしたら自分のギターエフェクター・アンプはスベテセッティング済みそのままでいつもの音が出る、
まるで、プロ並みのライブそんなすごいステージを数え切れないほどこなしてきていましたが今から思えば、ろくに練習もしないで、そのままステージに立っていたこともしばしばありました。
思えばこんな恵まれた環境は二度とないあのときにもっと一生懸命やっていればよかったという後悔が強く残ります。
そしてこのバンドではテレビ番組もたくさん作っていただきドキュメンタリーですが、町を歩けば知らない人に声を掛けられることも良くありました。
そして音楽をやる人ならすべての人が憬れる<
自分達のCDも作りました。
それが町のレコード屋さん(CDショップ)に並んでいたのです。
すごいことです。
こんな夢のような毎日がいつまでも続くはずが無いと思いながら10年近く続いてしまった
そう RCサクセションのあの歌のように
『♪こんなこといつまでも長くは続かない、いいかげん明日のこと、考えたほうがいい〜♪』と言う感じ
今正直言ってあんな生活もう一度やってみたいなと思うけど出もそれは障害者のバンド゛という肩書きではおそらく無理だとおもう、もう絶対に無理
で今は何を目指して音楽をやっているかというと、まずバンドとしてのレベルをあげることと、たくさんの曲を作ること、その中から今の時代に合う曲が出てくるかもしれない
視覚障害者うんぬんではなく
まず、へたくそな親父バンドでも、なんかいいノリしてんなぁ
というところを目指していきたいです。
少しずつでも前進できるようにやっていこうと思っています。
2017年1月現在
、相変わらずバンド活動は続けています。
子どもも小学5年生と、5歳となり、上はもうすぐ私の身長を超えそうです。
やはり音楽は好きなようですが、ギターは全く、見向きもしません。
トランペットで音楽隊に入って活動しています。
私のほうわ、Iphoneで曲作りするために、いろいろとやってます。
ギターも弾いてますけどあまり上達しないようですね、
ギターは、20代のころにはかなり練習していましたが、それでも今はへたくそギターです。
歌はあまり練習したことがないので、最近は、Vocalをもうちょっと何とかならないかと、いろいろと試行錯誤しています。
あきらめていた、ハイトーンにも挑戦しようと、毎日裏声を出して
子どもや嫁に
『きもいからやめて』と怒られてます。
それでも負けないようにカラオケボックスなどで、
気もい歌を歌って、いつかは高い声をかっこよく出せるようにと、練習中です。
新田裕志